「16時には帰れると思うけど」 出掛ける前に交わした彼女との約束を、僕はあっさりと破ってしまった。 勿論わざとではない。小さな偶然や予想外のトラブルが立て続いてしまったのだ。 でも良かった。「もしかしたらもう少し遅れるかも知れない。それでも、遅くても19時には帰れると思うから」 そう付け足しておいたからだ。 今までの経験上、このスケジュールならば大体16時帰宅。遅くても19時には、とパターンが決まっていた。 「ねえ昭仁。今日は何時に帰れるの?」 出掛ける時に彼女が僕を寂しそうに見送るのはいつものことだったが、それでもあんなに何度も帰宅時間を聞くことは珍しい。 何か怖い夢でも見たのだろうか。その割には悲しい顔はしていないけれど。 「城崎さん…」 確かに気にはなった。だが、僕は今から仕事だ。 彼女が寂しそうだからと言う理由で遅刻も早退も出来る訳が無い。 だから僕は、もうそれ以上彼女の事は考えなかった。 「出来るだけ早く帰ってくるよ」とだけ言い、僕は玄関のドアを閉めた。 僕は冷たい人間だ。 彼女のあの些細な質問の意味を…もっと考えていれば、良かったのだ。 「ふう」 シートベルトを外しながら、ふと腕時計を見てみると、夕方とも夜とも言えない微妙な場所を2本の針が歩いていた。 それを表すかのように、空の色もやはり赤とも紫とも黄色とも言えないような微妙な色をしている。 学校での業務を終えて既に約1時間以上が経っている。 渋滞に巻き込まれてしまった所為でいつもより少し帰宅に時間が掛かった。 業務とは言っても今日は土曜日。学校に行ったは良いが、授業はしていない。 殆ど人にも会わないまま、テストで使う資料をまとめ、当番だった雑務をこなしただけ。 ただそれでも、それなりの疲労感を体が覚えているのはやはり年なのだろうか。 「…よいしょ」 こうやって助手席に置いてある鞄を取るだけで小さくかけ声が出てしまうのも、…あぁ、やはり年なのだろう。 一人だというのに思わず笑ってしまう。 飽きる程に繰り返した駐車と言う行為をこなし、僕は車の時にだけ使用する黒縁の眼鏡を外して外へ出た。 早く帰ってあげよう。あの寂しそうな瞳の靄をきっと僕が払ってあげなくてはいけないのだから。 車から降りて、今からエレベーターに乗る。そして彼女が待っているあの部屋に戻るまでの数分間。 その短い時間だけが僕が一日の中で唯一許された、何も考えずにいられる時間なのかも知れない。 そう思っていた矢先だった。 「あーきちゃん」 「!」 それは、とてもよく知る声だった。 振り返ると想像通り、そこには僕より背が高く、色素の薄い男…城崎レンがいる。 駐車場の入口でひらひらと手を振りながら。 軽薄な態度も整い過ぎている風貌も、何もかもが相変わらずのようだ。 …いや、それより。 「何でこんな所にいるの?」 「たまたま近く通ってさぁー」 首を傾げながらこちらに歩いてくる美丈夫は、「運命かしらぁ」と得意の猫撫で声で僕の神経を故意に逆なでしようとしている。 Tシャツにジーパンと言ったラフな格好にも関わらず、何をしてもいちいち様になってしまうのは、手足の長さの所為か、整った顔貌の所為か。 …いや、きっとそんなもんじゃない。 彼より手足の長い人はいる。彼より整った顔を持った人だっている。 ただそれでも、この独特の雰囲気をこんな風に纏える人間はきっとそうはいない。 人の目を強制的に奪うこの、…。 「此処あきちゃんのマンションだなーって見てたら、あきちゃんが帰ってきたのよぉ。凄いよねえ」 「待って、…良いからこっち来て」 むき出しになっている色の薄い逞しい二の腕を引き、僕は駐車場の死角に彼を引っ張り込んだ。 僕が車を止めたのは道路から近い、言ってしまえば外から丸見えの場所。 駐車場内はほんのりと薄暗いが、それでもこんなに目立つ奴と一緒にいたら誰に見られるかわかったものではない。 この男と話している所なんて僕は誰にも見られたくないのだ。 「やだぁ。何処連れてくのぉ。おまわりさあーん」とケタケタ笑うその声に、自分でも驚く程に苛立った。 だがそれでも大人しく引っ張られてくれたから、今はそれで良しとする。 「こっち」 このマンションの駐車場の奥には、どう考えても設計ミスだろうと思われる大きな梁がある。 あそこの近くに車を止める人は大変だろうな、と思った事はあったが、まさかこんな形でこの柱に感謝する日が来るとは。 此処なら、わざわざ覗きに来る人でもいない限り誰にも見付からないだろう。 「で、用件は?」 「は?用件って?」 大人しく壁に背を預けている彼は僕の言葉に素っ頓狂な声を上げた。 「何か僕に用が有るんじゃないの?」 「んなもん無えよ。さっき言っただろ?近くを通っただけ」 腕を掴んでいた僕の手を払い、レン君は笑いながら目を眇めた。 ふわりと苦い、煙草の香り。 「…そう…。じゃあ今後は用も無いのにこの辺うろつかないでくれる?」 「何でお前にそんな事決められなくちゃいけねーんだよ」 笑顔のまま顔をまっすぐに見つめられ、思わず言葉を無くす。 「そ…」 …確かに彼の言うとおりだ。僕にこの男の行動を制限する権利なんて無い。 ただそれでも、この男に僕の行動範囲内をうろつかれるのは我慢がならない。 ――わかっている。身勝手だということくらい。……それでも。 「昭仁」 「…なに?」 「くく、すげえ皺だな。伸ばせ伸ばせ」 僕の眉間をぐりぐりと押え、男が笑う。 払おうとした瞬間、額から手が離れたので…僕はそのまま拳を握った。 何なんだ、もう。本当に調子が狂う。 「そんなに嫌な顔されるんだったら、帰ろうかな」と今度は僕の頬を撫でて来たので、今度こそ僕は強めにそれを払った。 相変わらずべたべたと鬱陶しい奴。きつい香水も、いつもより濃い煙草の匂いも、僕を見下ろすその視線も、何もかもが神経に障る。 「こんな暗がりに連れ込まれたんだから、させてくれるのかと思った」 「させるって……何を?」 「俺いつも財布にコンドーム入れてあるから、昭仁さえ良ければいつでも相手するよ?」 「…」 思わず閉口した。まさか、本当にそのままの意味だったとは…。 「…レン君ってゲイなの?」 「そんなにドン引きするなよ」 「いや、引くでしょ、普通それは…」 「ったくお上品だねぇ、あきちゃんは」 君が下品なんだよ、と返したいが此処で言い返せばこの男が喜ぶだけ。 流石に僕もそれくらいは学習している。 「大丈夫よ、そんなに警戒しなくても。今日はこのまま、本当に帰るから」 彼が壁から背を離し、更に上から僕を見下ろす。 睨みつけてみるが、まるで子供をあやすような顔をされた。 「昭仁も帰れよ。疲れてんだろ?」 「…」 優しい声。優しい目。 いつもならもっと粘着質で嫌らしい言葉を次々と投げかけてくるのに。 今日は何だか張り合いがない気がする。…張り合いというか。 「……」 ――何だろう、この違和感は。 まず、いつも彼から放たれる匂い立つような妖しさが、人を食ったような軽薄さが、何処か淡い気がする。 いつも傍に居るだけでひりひりとした威圧感を感じるのに。今日はそれが全く無い。 それどころか、この雰囲気。…何と形容すればいいのか。 一番しっくり来るのはやはり「優しい」、のような気がするのだが。 「……」 …優しい?この男が? そんなの有り得ないだろう。もっと的確な言葉がある筈…。 「…」 「昭仁」 考え込んでいると、僕の肩に大きな手が置かれた。 「! 何?」 「…――」 彼が僕の耳元で低く、何かを囁いた。 が、何を言われたのかなんて、全く理解出来なかった。 それどころでは無かった、と言った方が正しい。 「! …っ…!?」 視界に迫る薄茶色の睫毛は、(彼女と同じ位)とても長い。 何故かそんな事だけがはっきりとわかる。一瞬、体の動かし方も忘れた癖に。 「…」 手慣れた仕草で、彼の色素の薄い唇が僕の唇と重なった。 肩に置かれていたはずの手がいつの間にか僕の腰に回っている。 もう片方はしばらく僕の顎を支えていたが、ゆっくりと背中へ流れていった。 ――何を、僕は…何をされているんだ? 「…っ!」 何をされているか。 それをようやく理解することが出来た僕は、彼の肩を跳ね飛ばすように押し返した。 分厚い男の体はそう簡単に動かせはしなかったが、それでも重ねられた唇を剥がすことは成功する。 「な、…っ!何」 「…ふっ」 男は僕の赤い顔を見るなりくつくつと笑い出した。 かと思えば、やがて可笑しくてたまらないと言った感じで腹まで抱えだす。 「な、何がそんなに可笑しい…!」 「だって。こんな可愛いキスで、くくっ、そんなに慌てること無えだろ」 「お…とこ同士でやるものじゃないだろ!こういうのは!」 「そう?」 突き飛ばしたはずの体が、また1歩近付いてきた。 いつの間にか壁際に追い込まれていた僕には逃げ場もない。 「俺結構やるけどねぇ。あーこいつ可愛いなって思った時とか」 「やっぱゲイなんだろ、君…」 「違うわよー。女の子も大好きよ?」 「女の子、も…って…」 それって結局男も、行けるって意味なんじゃないのか。 同性愛に偏見はないつもりだけど…。 「…っ」 いや、目の前の男が同性愛者だろうが両刀だろうがどうでもいい。 ただ何で寄りに寄って、この僕にその食指が動いてしまったのか…! 嫌悪感をそのまま、露骨に唇を拭いてみせるが男は全く動じていない。 レン君に取っては男同士のキスなんて、本当に何でもないことなんだろう。 僕がこれだけ取り乱しても、不快感を覚えても、そよ風が吹いたとしか思っていないのだ。 「二度と僕に触れるな…」 これ以上この男に付き合っていたら、僕までおかしくなってしまう…! 「用も無いのに話し掛けるな!それと…!」 「ねぇ、昭仁。日本じゃ祝福のキスって何処にしたらいいの?次からはそこにするから」 「んなの…っ、知るわけないだろ。祝福のキスなんて文化は日本には無い!」 …無い。 と、はっきり言い切れる自信はないが。 僕は男に背を向け、足早にエレベーターへ向かう。 後ろから「冷たあい」と笑われた気がしたが、もう相手にしていたくなかった。 薄暗い駐車場を抜けると、更に暗い夜空が頭上に広がっている。 こんな短時間でこんなにも空の色は変わるのか。 「…はぁ」 僕はロビーを抜け、オートロックを解き、お馴染みのエレベーターのボタンを二三叩き、万感のため息を吐いた。 こんな時に限ってエレベーターは最上階で止まっている。(これがマーフィーの法則ってやつだ) あまりに苛立って舌打ちも出ない。 箱が降りてくる静かな機械音を耳にしながら、カウントダウンのように光る階数を僕はただ見つめていた。 早く降りてこい。早く。 腕時計を見ると、車を止めてからもう20分近く経っている。 人生で最も無駄な20分を過ごした気がする。 チンピラに絡まれ、挙げ句キスされるなんて…最悪だ! 僕はもう一度、唇を強く拭った。 ったく、あの男。何でこんな真似を…。 ――『祝福のキスって何処にしたらいいの?』 「…?」 祝福。そうだ。そう言えばあの男は、祝福と言った。 祝福っていうのは説明するまでもない。…何かを祝う、と言う意味だ。 「祝う…?」 何を祝ったんだ? …思わず固まる。 今日は。 そう考えた時、ビリッと脳に電気が走った。 ――そう言えば、今日は何日だ? もしかしてと思い、今度は腕時計ではなく携帯を開く。 日付を確認すると、 06/02…。 思った通りの数字がそこには並んでいた。 僕は無意識に呼吸を止めた。携帯にはメールが数件届いている。 初めて携帯を触った時のような覚束無さで僕はそれを開き、そしてようやくふっと息を吐いた。 『お誕生日おめでとう瀬田くん!』とタイトルが表示され、送信者の所には親友の名前。 他にも、他にも、…異口同音、祝いの言葉で埋められている僕のメールボックス。 城崎レンの名前は無い。その妹の名前はある。生徒の名前も幾つかあった。同僚からも、昔の友人からも。 メールにろくに目を通さないまま、僕はポケットに携帯を入れた。 「…誕、生日…」 細々とした作業に追われ、そう言えば僕はほぼ丸一日携帯を開いていなかった。 いや、仕事のメールは確認している。それ以外を無意識に無視していたのだ。 カレンダーすら、業務の目線でしか追っていなかった。 …何て無慈悲な男なんだろう。 「昭仁、今日は何時に帰ってくるの?」 彼女が出掛ける間際にやたらと帰宅時間を聞いてきたのも、…そう。 もしかしたら今頃、彼女は僕の部屋を飾り付けているのかも知れない。 こんなの、少し考えればわかることじゃないか…。 彼女は、僕の誕生日を祝おうとしていたのだ。 『祝福のキスって何処にしたらいいの?』 そして、彼もまた。 「…!」 僕はもつれそうな足で弾けるように走り出し、駐車場に戻った。 罪悪感に似た焦燥と、この感情は…軽蔑だろうか。愛憐だろうか。 そうだ、彼がキスの前に囁いた言葉、それは―― Happy birthday.Akihito. I wish you many happy returns. (誕生日おめでとう、昭仁。幸せな日が、これから何度も貴方に巡ってきますように。) 「っ、…はぁ…」 …さっきまで彼がいた場所に、 「…はぁ、…はぁ…」 勿論彼は居なかった。 代わりに残されていたのは、彼の煙草の吸い殻。 壁に貼られている「禁煙」の文字なんて、見えてもいなかったのか。 全く、君らしい…。 「…」 そう言えば駐車場の入口に、…同じ煙草の吸い殻が何本も落ちていた。 そう。何本も。何本も。たまたまなんかじゃなかったんだ。 レン君が此処で…僕を待っていたのは。 「…は」 思わず乾いた笑いが漏れる。 …余計なことばかり言う癖に言葉が足りない。君はいつもそう。 後からそれに気付いて乱される僕の感情なんてきっと知った事ではないんだろうね。 こうやって僕が苦しむのも、もしかしたら楽しんでいるのかもしれない。 「…レン…」 あんな、触れるだけのキスにいつまでも囚われるほど僕は初心(うぶ)では無いし、子供でもない。 (流石に男同士だから、困惑はしたけど) ねぇ、レン君。 『誕生日のお祝い?』 『本当に、それだけの為に此処に来たの?』 『そう…そうか』 『…』 そう。 『わざわざ…ありがとう』 それくらいの言葉なら、僕だって。 END. |