真雪さんより瀬田マナ。コチラの漫画の続きです。


 私は、何も知らない先生が好きだ。
 「ねえ、私が珈琲入れてもいい?」
 抱きついたまま見上げると、先生は少し目を細めた。
 「いいよ、僕がやる。城崎さんは座ってて。」
 「私がやりたいの。お願い。」
 間髪入れずにそう切り替えした私を見て、困ったように眉を下げた。どうしてこんななんでもないことに食い下がるのが、先生は知らない。
 「じゃあ、お願いしようかな。ミルクは…」
 「お仕事終わったから入れていいんでしょ?お砂糖はどうする?」
 「任せる。城崎さんと同じくらいでいいよ。」
 やっと離れた私の頭を軽く撫で、先生はリビングに向かう。頭の悪い私がこのパターンを覚えるのにどれほど時間を要したか、先生は知らない。

 「…懐かしい歌だね。なんてタイトルだっけ、それ。」
 「One more time, One more Chance.」
 「そうだ、昔よく流れてたな。城崎さん、よく知ってるね。」
 「たまたま、この前聴いて。いい歌だね。」
 あなたにそう言って欲しくて、歌を通して懐かしむあなたの表情が見たくて、私は古い歌を必死に探して歌詞を覚える。抑揚の無いこの声は歌を紡ぐことすら難しいけれど、耳を傾けるためにあなたが伏せる瞼には代えられない。
 これ以上何を失えば、心は許されるの。
 たったひとつのメロディに込められた私の想いを、あなたが知ることは一生無い。
 湯気の立つマグカップを目の前に置くと、有難う、と微笑んでくれた。隣に座ると、先生が窺がうようにこちらを見ていることに気づく。
 「なに?ミルク淹れ過ぎたかな。」
 「いや、そうじゃなくて。さっきの、ちょっと意外だったんだ。もう一回って言われると思ったから。」
 そう言うと先生はマグカップを持って、一口飲んだ。美味しいよ、と珈琲によく似合う低い声で囁く。
 「一回だけじゃなくて、何回でも聞きたいけど。なんか、勿体無くて。」
 「勿体無い?」
 目を丸くするその表情は幼く、教壇に立つ普段の先生からイメージすることは難しい。
 「私だけが、見ていたいの。先生の、いつもと違うところ。運転中は眼鏡掛けてることとか、夏でも絶対に薄着にならない理由とか、そういうの。」
 「そんなの、城崎さんはいっぱい見てるでしょう。それに、減るものではないし。」
 「いいの、そういうことなの。」
 強引にまとめ、私は先生の肩に頭を預けた。
 「城崎さん、そのまま寝ちゃだめだよ。明日は平日なんだから。」
 返事はせずに、じっと目を閉じる。
 砂浜で貝殻を集めるように、ひとつひとつ些細な思い出を手に入れる。いつか「私だけ」じゃなくなる日がきても、その甘い記憶だけで夜を過ごせるように。
 私がそんなことを考えているなんて、あなたは知らないままがいい。