この部屋の主――城崎レンは数時間前に「ちょっと出かけてくる」、とだけ言い残し、部屋を出て行った。 あの男の「ちょっと」は数分だったり数日だったりいつも大層気紛れだ。 今日の俺の役目は「私もレンと一緒に出かける」と駄々を捏ね、そしてそれを叶えて貰えなかった彼女の機嫌を取る事。 とは言っても甘いスイーツと下らない四方山話を並べてしまえばこの子は立ち所に笑顔になってくれるので、そう難しい役目ではない。 「美味しいね、これ。オペラケーキ?だっけ」 「マナちゃんとレンさんが好きそうだと思って。オペラケーキってこの店が最初に作ったらしいよ」 「へぇー何て読むの?このお店…ダ…ロ、ヤ?」 「読めたらまた買ってきてやるよ」 「うー…?」 何の身にもならない下らない会話だ。 だけど俺はこの下らなさが無ければきっと生きていけない。 結局パリを本拠地とするその老舗ブランドの名前は正しく読まれなかった。 まぁそんなものだろう。 すっかり機嫌の直った彼女は、部屋に掃除機を掛け洗濯物を干し始めた。 高校生の癖に、一通りの家事を率無くこなしてしまう事実に密かな同情を覚えた事は数回ではない。 普通の高校生に出来ない事が出来、出来る事が出来ない彼女はやはりアンバランスな生き物なのだ。 「ふふ。要のパンツ、いっぱいある」 「あーそれ無くしたと思ってた」 「ジャージもあるし、タオルも。ほら」 「悪ぃ」 ゆるりとした巻き毛が、春の風に踊らされているのをソファの上で寝転がりながら見ていた。 陽光が反射し金色に光る髪の毛は、まるで天使みたいだ。…と、素面で思ってしまった自分の少女趣味に思わず苦笑する。天使が洗濯物なんか干すわけないのに。 「痛…」 「?」 恥ずかしい妄想に浸っていると、駒鳥の様に小さく細い声が、震えた。 今更ながら、…俺は改めて知った。この子は声量が平均より大分少ない。 囁く様な話し方。まるで内緒話をするみたいな。 それなのに、俺はこの子の声を聞き逃した事がない。 「どうした?」 「…ん、…目にゴミが…」 声の小さな天使が説明しながらその場にうずくまる。 何だ、目にゴミくらい。と思っていると、その大きな瞳からぼたぼたと涙がこぼれ落ちてきた。 「おい、そ、そんなに痛ぇの?」 「…取れない」 何度も強く瞬きをし、それでもまだ取れないのか目を擦っている。 一瞬で充血した瞳が痛々しい。 俺は彼女の手を掴み、彼女の動きを阻止した。 「擦るな。洗ってこい」 「…」 辛そうに眉根を潜め、返事もせず、ただ俺の眼を見つめ返すそのアンバー。 胸裡でざわめく欲情に似た――。 「あ、マナちゃん。ちょっと右向いて」 「え?」 「ゴミ、見えた。取れそう」 右ってどっち?私から見た右?と目を潤ませたまま真剣に迷う彼女の姿に思わず笑いながら、手で「こっち」と指示をする。 彼女を泣かせるその正体は、針の様な小さな木くず。 「痛かった…」 「まだ目赤いな。明日の朝になっても赤かったら病院連れて行くから」 「うん。有難う」 俺の腕に絡まりながら笑うマナちゃん。 その横顔にホッとしながら、俺は胸の裡で違う事を考えていた。 彼女の泣き顔、掴んだ手首の細さ。 彼女の目にまた春の風の悪戯が起きてしまったら。 ――…その時、俺が傍に居なかったら。 「出来たらさ…他の男の前で泣かないで」 「え?何?…聞こえなかった」 「いや…何でもねぇよ」 ほら。俺が小さく囁いた所で、彼女は俺の声を上手には拾えない。 それだけで、もう答えは出ているじゃないか。 END. |