真雪さんより玲二と真梨香。 ※数十年後、死ネタ注意。

 「満月か…。」
 月の満ち欠けに心を奪われるような穏やかな日々がようやく訪れたことに、どんな感情を持てばいいのかこの年になっても分からないままだった。刻まれた皺の数が物語る軌跡に彼女の姿が無い、その事実が全てだ。
 夜の墓場に自分以外の姿はなく、当たり前かと歩を進める。沈黙する石たちの間を縫って辿り着いた墓前に立つと、口から出るのはいつも同じ言葉だった。
 「待たせたか。」
 声音も、眼差しも、彼女が生きていた頃と変わらない。違うのは遅いと俺を詰る声が聞こえないこと、最期まで吸い続けた煙草の匂いが線香に代わっていること、鬱陶しげな表情が年々記憶の中で薄れていること。それを寂しいと思う資格があるのだろうか。温もりがある間、優しい言葉など何ひとつかけてやれなかった俺に。彼女がそれを望んでいたことを、誰よりも知っていながら。
 「飛ぶ夢をしばらく見ない。」
 届くはずがない。それでもあれから三十年近く、毎年こうして語りかけている。一年のうち、この日だけと心に決めた上で。
 「何かの書物で読んだが、夢というのは死後の世界と繋がっているらしい。死人と会えるのは思い出の中だけだから、脳さえ忘れた記憶を夢が呼ぶそうだ。…お前が夢の中なら走っても苦しくないと喜んでいたのは、いくつのときだったか。」
 飛ぶ夢が何を表しているのか、それを見なくなった意味は、もうとうに考えるのをやめていた。
 懐から煙草の箱を取り出す。とんとん、と角を叩いて、最後の一本を掌に落とした。
 「年を取っても利点などないな。身体の自由が利く間なら仕事を詰め込んで何も考えずに済んだが、六十近くにもなればそうはいかん。疲れた身体に夢が宿らないとは、皮肉なものだ。」
 オイルの残量が僅かのライターを付ける。闇の中で小さく、安い炎が灯った。湿気た筒から上がる煙はか細く、味は嗜好品と呼べる代物では無かった。
 「お前は線香よりこっちの方が好きなんだろう、だから長生きしなかったんだぞ。」
 もう、無精な彼女が買い溜めた煙草を弔いに使うことはできない。
 「まだしばらく、そっちには行けない。もう一箱ぐらい買っておけ、馬鹿め。」
 言いながら無意識に腕を上げていたことに気づく。あの黒髪は灰すらも残っていないというのに。
 「…馬鹿は、俺か。」
 やり場の無い手を墓石に置いた。与えられたのは昼間の熱気が嘘のような、冷たい感触だけだった。
 触れることなどいつでもできた。それが許される距離に俺はいた。拒絶されたわけじゃない、誰に禁じられていたわけでもない。
 だったらどうして?
 絶命するその瞬間、真梨香の手を握っていた少女の声で問い掛けられた気がした。
 しゃがれた喉では呻く声すらも出てこない。フィルターの直前で燃え尽きた煙草と、ようやく流れた雫に答えを委ね、縋るように膝を折った。