グラスを籠に伏せて布巾をかけると、もう日付が変わっていた。あたりに散らばるクラッカーの残骸と転がった空き缶をまとめ、明日は何のゴミ出しだっけとカレンダーに目をやる。市の指定どおりに分類して玄関にまとめると、次の作業にとりかかった。 「レンさん、起きてください。あたし、もう帰るんで。」 「んー…」 「ほら、寝室行って下さい。明日も早いでしょ。」 「かなちゃん、毛布ちょーだーい…」 聞き慣れたはずの甘ったるい声が、何故だか今日は耳に障る。 「いいから早く、寝室に。」 「無理ぃ、ここで寝る…あと頼む…。」 はあっと大袈裟に溜息をつく。ここまで出来上がってしまえば明日の昼まで目を覚ますことは無い。図体と顔に似合わずそこまで酒が強くないことを知っている女は、きっとあたしを含めても片手で足りる程度だろう。 ご所望の毛布を投げ付けると、目をきつく閉じたまま手繰り寄せくるまった。これで風邪の心配は無い。明日の予定は朝になってからキャンセルすればいい。 問題はたぶん、こっちの方がずっと大きい。 「マナト、起きて。」 「うー…?」 ソファの上で脚を折り畳み、規則正しく上下していた肩が描く華奢なラインは兄の姿と似ても似つかない。 「あたしもう帰るから、戸締りちゃんとしてね。」 「えー、帰んなくていいじゃーん…明日なんか予定あんのー…」 「あーむにゃむにゃうるさい、いいからさっさと風呂入るなりなんなりしなさい。」 「かなも一緒なら入るー…」 そこいらの女よりもよっぽど長い睫を瞬かせて、焦点が定まらないまま名前を呼ばれ舌打ちしかける。 「馬鹿なこと言ってんじゃないよ。あたしはちゃんと起こしたからね、風邪引いても看病しないよ。おやすみ。」 うつむいたまま背を向ける。一歩踏み出そうとしたその瞬間、その声が静かに掠れた。 「かな、待っ…」 激しい咳が続く。振り返ると、マナトは枕に顔を埋めていた。 「ちょっと、大丈夫?まさかもう…」 慌てて近寄り脈を測るため腕を軽く引っ張ると、骨張った手が私の手首を捉えた。 「きゃっ…」 鈍い音とともに埃が舞い上がる。かつん、とフローリングに眼鏡が落ちる音がした。 「…何ふざけてんの、ぶっ飛ばすよ。」 「ふざけてなーいよ。かなが悪いんだよ、今日はずっと一緒って言ったのに帰ろうとするから。」 そんなこと言ったっけ、と記憶を探るがどうも思い出せない。 至近距離でマナトがにっこりと微笑む。右腕で私を抱え込んだまま、ソファの背を蹴倒しベッドに変形させた。 「一緒に寝ようよ。」 「あんたいくつになったと思ってんの、いい加減一人で寝られるようになりなよ。」 「今日だけだって。誕生日プレゼントとかいらないから、お願い。」 十七になったとは到底思えない、仔犬のような上目遣いは兄貴と共に有害指定されるべきではないだろうか。 「待って、その前に眼鏡…」 「寝るならかけなくていいじゃん、そっちの方が好きだし。」 歯の浮くような台詞から何も感じないのは異常に整ったこの顔立ちだけでなく、共に過ごした年月が大きい。つくづく慣れとは恐ろしいものだ。諦めて横になると、後ろから長い腕に包まれる。レンさんと同じ、香水の匂いがした。 「一緒に寝てくれる女、探したら?あんたの顔なら、この時間帯にうろついてるやつに声掛ければすぐ捕まるじゃん。」 「やだよ、そんなの。俺はかながいーの。抱き心地いいし。」 「抱き枕扱いかよ…。」 少なくとも三十路を前にした女に言う台詞では無い。いつまでも甘やかし続けたのが間違いだったのかもしれない。そもそも、出会ったころはこんなに成長するとは思わなかった。レンさんの遺伝子を受け継いでいるのだから、予想出来なかったあたしが浅はかなのだろう。 「このスウェット生地いいよね、煙草くさいけど。レンはちょこちょこ変わるけど、かなの匂いはずっと変わらないね。」 「ごちゃごちゃ言うなら帰るよ。」 首元に顔を埋められたくすぐったさに身を捩りながら声を低くすると、マナトが不意に腕の力を強くした。 「帰らないで。」 震える語尾で、本気で怯えさせたことに気づく。しまった、と目を眇めたが遅かった。 「レンもかなも、そうやってすぐに俺のこと置いてくんだから。今日ぐらいは、一緒にいてよ。」 「…もう置いてかないって約束したでしょ、あたしもレンさんも。それにもうあのときみたいに小さくないんだから、自分の足で追い駆けることだってできるじゃない。」 空いた手を握ってやると、少しは安心したのかふっと力を抜いた。 「それでも嫌だよ。怖いよ。ずるいよ、かなとレンばっかさっさと大人になって。五年も経ったのに、俺、まだ十七なんだよ。」 どうして手なんか握っちゃったんだろう。もう少し強く抱き締めてくれていたら、胸の締め付けをそのせいにできたのに。 「かな、愛してるって言って。」 それはあたしの役目じゃない。だけどこんなに大きくなった今、この子はあたし以外に無償の愛を求めることはできるのだろうか。 「愛してるよ、マナト。」 「もう一回。」 もしかしたらもう、既にいるのかもしれない。あたしだけじゃなく、本人が気づかないだけで。 「世界で一番愛してる。あんたが大人になるまで、あたしはちゃんと待ってるから。」 「ほんと?」 「本当。だからもう眠りな、目が覚めても手を繋いでいてあげる。そうだ、朝ごはん何食べたい?」 構わないのだ、それでも。あたしがこの子に与えているのも愛なんかじゃなく、それに似た何かだ。 「うーん…ホットケーキかな…」 「じゃあまず材料買いに行かなきゃね。早く寝ただけ早く朝になるんだから、今はおやすみ。」 返事を言う前に眠りに落ちていた。一度寝てしまえばこの兄弟はよっぽどのことが無い限り起きない。そっと腕を解くと、静かにベッドから抜け出した。寝室から取ってきた毛布をかけ、台所へ向かう。換気扇の下で煙草をつけると、ライターの音がやけに大きく響いた。 一人で眠れるようになるまで、あるいは他の女が見つかるまで、本当に必要なのはあたしじゃないと気づくまで、あとどれぐらいかかるだろう。 その日がきたときは、最後に壊れるほど強く抱き締めてくれればいい。胸の痛みや虚無感を全部物理的な痛みにして、それで終わりにできるのだから。 流し台に吸殻を捨て、匂いの移ったスウェットを脱ぎ捨てた。 |