「肉まんみっつと、パーラメントおひとつ、お願いします。」 目の前に差し出された紙に書かれた単語を読み上げるように銘柄を言った彼女から、煙草の気配は微塵も感じられなかった。誰かに頼まれているのだろう、と顔を上げると喫煙者独特の濁りとは無縁の澄んだ瞳を直視しそうになり、咄嗟に俯く。 「お預かりします。二百三十円が一点…」 先にレジに出された商品から清算を始める。掛け持ちのバイトのひとつ、コンビニの店員を始めてから随分経つが、今日のように生理用品を見るたびに思い出すのは、高校生活も半ばを過ぎて未だに初潮が来ない姉のことだった。 『そろそろだね、優希。』家を出る間際、カレンダーを見ながらか細く呟いた瞳子の言葉が蘇る。自分がなんと返事をしたかはよく思い出せない。 僕らには共有の傷痕がある。その痕は隣り合わせの僕と瞳子を隔てる薄い膜のようにびたりとくっついていて、あまりに自然に癒着しているせいか普段は思い出しもしないのにひとたび目に入るとその不快感は凄まじい。治すことも隠すこともできないまま、気づけば十二年が経っていた。 人は何を以って、大人と子どもの境界線を作るのだろう。僕たちの年代が生む思考としてはごく自然なことのはずなのに、最も身近にいた大人を大人と呼ぶことが憚られた経験があるため、どうしてもその疑問を消化できずにいた。昨日によく似た今日を過ごして、代わり映えの無い明日を迎えて、日々成長する肉体を持ちながら、ふと後ろを振り返れば五歳の僕が瞳子の手を握って見ている。低い古びた天井に無限の星空を求めた、光の宿らない眼を持って。 望むものはこんなにも質素で簡単なことなのに、手に入る気がまるでしないのは何故だろう。僕と瞳子の、二人だけの世界。豪勢な暮らしは望まない、理解者など求めない。瞳を名に持つ彼女の視界に、僕だけがいればそれでいい。 トングを持ち、レジの横に備え付けられた中華まんの棚を開ける。注文された肉まんを取り出す際、蒸気で曇ったプラスチック越しに姿勢の正しい女性を見やった。上品にまとめられた身なり、無表情と微笑みの中間のように薄く上がった唇には淡い化粧が施されていた。目の前にいる女性のように、世間体と見た目だけを気にした両親、とりわけ母親とは何もかもが対照的な人はすれ違うだけでもごまんといる。神話や御伽噺は欠片も信じてはいないけれど、魂と呼ぶものが実際にあるとしたら、僕と瞳子は何を望んであの女の腹を選んだのだろう。 「合計で、千二十円です。」 値段を告げる僕の声に女性が財布を取り出す。 肩にかかるかかからないかの黒髪は自然な艶を持ち、度の強そうなフチの無い眼鏡の奥で僅かに伏せられた睫と、黒のワンピースが不自然に迫り上がるほどの胸部、一般的な男が注視してしまう部位に僕はなんの魅力も感じない。瞳子にしかこの鼓動は疼かない。あの底なし沼のように暗い眼に見つめられたときだけにしか、男としての僕は機能しないのだ。 今のボロアパートとは違う家で一緒に住んでいた頃、僕が瞳子に求めていたのは安息という名の欲望だった。幼いながらに恐れていたのだ。僕のこの留まることを知らない欲望が、翠露よりも儚い実の姉を壊してしまうことを。 女性が千円札を一枚出してから財布の中で小銭を数え始めたとき、店の自動ドアが開き一人の男の子が甲高い奇声を上げながら走ってきた。ブレーキが壊れた自転車のようにそのまま一直線に女性へ突進し、膝のあたりにぶつかって転ぶ。その衝撃で女性の手から財布は零れ、盛大な音を立てて小銭がぶちまかれた。 |