藤咲さんよりレンと蛍戴きました。


In too Deep




例えばコップにそそいだ一杯の水でもいい、
洗面器に張ったお湯でもいいし、アスファルトの地面に広がった水溜りでもいい。
新月の夜に、そっと、凪いだ水を覗き込んでみて欲しい。
光のない場所で、本来ならば澄みきった水底を覗き込むことは容易ではない。
暗闇を吸い込んでどこまでもどこまでも深いようなそれは、その底に溜め込んだ苦い澱を包み隠しては何一つ存ぜぬ顔をして鈍く淀む。

凛と張り詰めたその美しい水面をに大きな波紋を起こしてやろうと、私はあの時心に決めたのだった。
操ったのはほんの少しの勇気と、内側から溢れ出る乱暴な衝動。
壊してしまえ―そんな思いを抱くにはそれだけで充分だった。

窓から差し込む光さえ皆無な新月の夜は漆黒。
がらんとした部屋の中には定期的なリズムで清潔な空気を送り出す空気清浄機と、白いシーツに覆われた大きなベッドが一つ。闇の中で仄白く見える広いベッドは私に祭壇を思わせる。それではもつれたシーツに包まって横たわるその男はさしずめ生贄のようかと思えば、自分でも突飛な想像をするものだと呆れた。

暗がりの中に浮かび上がる男は、その輪郭から充分に美しさがみてとれる。
なだらかな額から真っ直ぐな鼻梁と微かに開いてまろい寝息をたてる唇、
規則的に呼吸する度に上下する喉から、シーツに覆われた裸の胸元までを構築する全てがバランスよく整っていて、さながら寸分の狂いもない人形じみた風貌が不気味だと思った。
だからといって、怯む事はない―男の白い喉が上下する様を目で追う。その様が、凪いだ水面を揺らす細波のようだと思い、私はもう一度自分に言い聞かせる―怯む事はない。
波紋を起こすことなど、簡単な筈だった。

傍に立った私の存在になど気付くこともなく、眠る男はひたすら規則的な呼吸を繰り返す。
安らかな眠りを微塵も疑うことのないその美しい顔に、淡色の睫に縁取られたその目蓋が二度とひらくことのないように、きつく枕を押し当てた。

体重をかけては、強く、強く、押し付ける。
どうか柔らかな真綿の下で息絶えてしまえと。
それは半ば懇願にも似た思いだった気がする。

規則正しい呼吸が途絶える。シーツに包まれた肩が一度ピクリと跳ねて、
男の顔に一層強く枕を押し付けた。

その刹那、

がしりと、枕を押さえつけた私の右手が、男の手に捕らえられる。

その瞬間感じたそれは、眩暈だったのだろうか。先程まで両手の下にあった柔らかな感触は、もはやぬくもりを湛えた白い真綿のそれではなく、指の一本一本にまで纏わりついては、冷たくぬかるんだ黒い泥だった。
腕をとられて、沈む。深く深く、決して光の見えない闇の中へと、引きずり込まれる。

「殺しちゃうの?蛍チャン」

くぐもった声音は、枕の下のその顔の湛えた薄笑みをあまりにも容易に想像させる。
柔らかな金色の無精ひげが覆う口元は、さながら愛の言葉でも語るように甘く綻んでいるくせに、真っ直ぐで細い鼻梁の上の落ち窪んだ眼窩に収まった双眸の色は酷く冷たい。
金茶の髪と白い肌に似つかわしく澄んだ淡い色の瞳であるはずなのに、私にはその色が見えない。
一つだけわかるとすれば、色の見えない男の瞳はあまりにも暗く、深い。
飲み込まれた私は、更なる深潭へと沈む。

悲鳴になりそこねた音が乾いた喉の奥から漏れる。
それはもしかすれば、嗚咽だったのかもしれない。
喉を震わせた音と共に溢れて頬を濡らしたのは、涙だったのだろうか。

振り解こうともがいた腕の動きもむなしく、力強い男の手は私の手首を締め付ける。
その右手は、私を深い水底へと誘う右手。
狂った獣を模したように醜く呻きながら、私は男の上にうずくまる。
震える私の背中を撫でるその左手は、逃すものかと水底に私を押さえつける左手。

嗚呼、私はいつかこの人にころされるのだ。

波紋を、と投じたはずの一つの石は淀む泥濘に飲み込まれて姿を消して、水面はあいも変わらず何食わぬ顔で済ましているのだろう。
壊してしまえ ― 思うだけなら一瞬なのに、思うだけではああも容易いその衝動であったのに。遂げることは終ぞ叶わない。

愚かな私は知ってしまった。
身を乗り出して覗き込んだ彼の深淵はあまりにも深過ぎる。

覗き込んだが最後、沈んでしまう。

愚かな私がその事に気がつくのに、時はあまりにも遅すぎた。