絵室ユウキさんさんより瀬田とマナ戴きました。


 雨。
 雨の音。
 窓硝子に、雫が這う。
 ゆっくりと、滑り落ちる。
 少しずつ大きくなって、加速して、落ちていく。
 雨は、雨じゃなくなる。

 このまま堕ちていけば、私もいつか、私じゃなくなることが出来るんだろうか。いつになれば、私は私じゃない『私』になれるんだろう。


 目を覚ますと、先生はいなかった。先生がいない代わりに、私の枕元には見慣れた先生の字で書かれた置き手紙があった。
「おはよう。ちょっと出かけてくるよ。お昼過ぎには帰るから。冷蔵庫にご飯あるから、良かったら食べて。(よく寝てたから起こさずに行きます。)」
 ……これは、何だろう。心の中にふっと現れたモノ。それは雨のように静かで、それなのに容赦なく降り注いでくる。
 寂しい、のだろうか。でも、この感情をどうしたらいいのか分からない。何の為にこんな感情があるのか、私にはそもそも分からない。誰かに縋りたいのだろうか。でも、そんなこと赦されないじゃないか。
 縋ったりすれば、捨てられる。ちゃんと縋るタイミングを見極めなきゃならない。それは自分の為であって、それ以上に相手の為でもある。そのギブアンドテイクの関係が成り立っている時じゃないと、縋り付いたりしちゃいけない。私は、そう教えられた。
 寂しいって、何なんだろう。そばにいたいと思うから、いなくなってしまうと寂しいのだろうか。でも、いなくなったものは仕方ないじゃないか。追いかけても仕方ない。私は捨てられたんだから。必要のないものを捨てるのは当然のことなんだから、とやかく言うことは出来ない。
 時間が気になって、私はふと壁にかかった時計に目をやった。??ちょうど、正午を回ったところ。いわゆる昼過ぎ、だろうか。先生はもうすぐ帰ってくるのだろうか。雨が降っているせいで外は薄暗い。先生が出て行こうとしている時、目が覚めなかったのはそのせいだろう。眠りが浅い私には珍しい。

 まだ眠りの世界から抜け出しきれていないぼんやりとした頭で、私は時計と睨めっこしていた。横になって布団に包まったまま、もう随分長い間こうしている。
 秒針の動きが、やけに遅く感じられる。いつもは鼠のようにせかせかと回り続けている針が、亀にでもなってしまったようだ。とろとろと、這い回る亀。焦れったい。電池がきれかかっているかと思うけれど、そんなことはない。時計の針は、いつもと同じように、いつもと同じ軌跡を描いている。
 どうしてだろう。こんなにも時間が経つのが遅いなんて。私がどうかしてしまったんだろうか。
 家の前を歩く足跡にも、やけに敏感になる。雨の音に掻き消されることもなく、その音は私の鼓膜にはっきりと届けられる。どうしてだろう。先生がいる時なら、全然気にならないのに。
 今日の私は可笑しい。雨のせいだろうか。そうだとしたら、私は雨が嫌いになれそうにない。私の知らないことを教えてくれるみたいだ。もっと、知りたい。私は、私を。
 廊下を歩く、何度目かの足音が聞こえる。はっきりと分かった。先生のそれだと。ゆったりとしているけれど、何処か忙しない。先生らしいリズムとテンポ。
 足音が部屋の前で止まり、鍵を開ける音が響く。私はその時にはすでに、無意識にベッドから起き上がって玄関にいた。
 ドアが開く。先生の無防備な顔が隙間から覗く。ほら、やっぱりそうだった。やっぱりあの足音は先生のものだった。ちゃんと分かった自分が、何故か嬉しくて褒めてあげたくなる。
 ドアが完全に開き、先生が私を見る。
「あ、起きたんだ。どうしたの? こんなところに突っ立って」
 先生が微笑みながら言う。
「お帰りなさい」
 私も笑った。私が笑うと、先生はいつも嬉しいような困ったような顔で、寂しそうに笑う。そう、寂しそうに。
「ご飯は? 食べたの?」
「ううん、まだ。さっき起きたところだから」
 そう、と先生は静かに言いながら靴を脱ぎ、手に持った袋を掲げた。
「お土産、買ってきたよ。ケーキ。だから早くご飯食べて」
「うん、分かった。ありがとう、先生」

 気が付くと、さっきまで私の中にいた何かはいなくなっていた。時計の針も、いつものスピード感を取り戻し、周りの音も普段のボリュームに戻った。
 そうか。先生が帰ってくるって分かってるから、寂しいんだ。先生は絶対私の元に帰ってきてくれるから。だから、寂しいんだ。

「ねぇ、先生」
「ん?」
「絶対、いつでも私のところに帰ってくる?」
「うん、帰ってくるよ」
「絶対?」
「そうだね」
「……そっか」