女の涙には魔力が宿っている。何度無く目にしてきた光景を前に、無粋な男ができることといえばティッシュを差し出すぐらいだ。女を口説くことに激しい熱情を注ぐ奴等なら清潔なハンカチを常備しているのだろうが、生まれつきそんなバイタリティを持ち合わせていない俺は黙って事の成り行きを見守るしかない。 「・・・ごめん。」 何がごめんだよお前が俺に今更何を謝る必要があるんだよ。浮かぶ言葉は到底慰めには届かなくて、今口を開けば目の潤みを悪化させるだけだ。 ぐずぐずと鼻を鳴らし、母親の帰りを待ちきれない幼女の涙に似たそれははぽたぽたといくつも絨毯に染みを作っては消え、そのあっけなさが何故だか俺の苛立ちを助長させた。 「俺、帰るわ。」 箱ティッシュを床に置き、マナちゃんの方を見ることすらできずに立ち上がると腰に柔らかな圧力が掛かった。 「行かないで。」 消え入りそうに鮮明な声に震えかける脚を抑え、いつかの宴の後のように強引に腕を振り解く。 「待って、要。お願い、行かないで。」 そんな声で俺の名前を呼ぶな。他の男に触れた手で俺に触るな。俺以外の男に向けた涙を溜めた瞳で俺を見るな。 「か、なっめ、」 細い首筋を壊すような鈍い咳に思わず振り返る。ヒューヒューと異様な音を立て、蹲るマナちゃんの元に駆け寄る前に、この家に来る前に寄っていたパン屋の紙袋の中身をぶちまける。傍らに跪くと小麦粉の匂いが強いそれを口元に運び、背中を摩る。 「ほら、教えただろ深呼吸。」 こくこくと必死に頷き、破れそうなほど強く紙袋を握る。この系統の発作は本人以外が冷静を欠くと事態の悪化を招く。五年前から俺がこの子の傍にいるために学べたことなんて、その程度だ。 「ごめん、なさい。」 小さな肩を激しく上下させながら、荒い呼吸の合間に挟ませた謝罪がまた俺の眉間の皺を深くする。 「ごめんね要、謝るから、行かないで。」 ぽろぽろと伝う涙が齎す焦燥は、マナちゃんが少しずつ呼吸を治めるのと反比例して胸の内で暴れだす。それが具体的な熱を持って下半身に回るまで、そう時間は掛からない。こんな状況で邪な感情を持っているなんて、まともに触れることすら叶わないお前を穢すことにしか繋がらないのに。 「嫌いに、なった?」 いっそ俺を嫌いになって欲しかった。腕に縋りつかれて振りほどくことも抱き締めることもできずに、今日まで寄り添ってきた怠惰は罪名を与えることすら許されない。 「もういいから。」 腕を振り払う代わりに紙袋を下ろし、背中を摩っていた手を一度休めテンポをゆっくり叩いてやる。 「怒ってない、嫌いにもならない。だからもう休め。」 無骨な言葉を並べて一瞬の安息に逃がす。赤く腫れた瞼は重さを増して、手に疲れを感じた頃に微かな寝息が零れだした。 ティッシュを抜いて目元を軽く拭ってやり、なるべく自分の身体から遠ざけて寝室まで運ぶ。しがみつかれたあの晩から既に半年以上が経過しているのに、どれほど懸命に意識の外に追いやろうとしてもそれを嘲笑うかのように記憶と温度は蘇る。ブランケットとシーツの間に滑り込ませるように寝かせ、ベッドのすぐ下に膝を付いて座る。ついさっきまでの発作が嘘のように寝息は穏やかで、頬にこびりついた白い痕も跡形も無く消えてしまう。目に見える形で傷ついていて欲しいのか。酷く傲慢で浅はかでみっともなくて、醜いものばかり渦巻くこの胸に触れて名前を呼ばれるその行いは押し倒して突っ込むより数百倍の罪悪感を醸し出すというのに、涙を溢れさせた彼女が求めるのは俺なのだ。 半ば無意識のその行動は出来心とでも呼べばいいのか、終わりの無い思想に嫌気が差したのか。横たわる掌を恐る恐る両手で包み込み、選び抜かれた雪の結晶だけで出来たようなそれを自分の額に引き寄せる。 「冷たいな。」 届かないことが一番の救いだった。手が冷たい人は、なんて迷信を彼女は頑なに信じ続ける。彼女が生きるために依存する人々の手は、揃いも揃って温度を失くしているらしい。ふと、自分の薄汚い手を見つめてみる。基礎体温が関係しているのかあまり自分の掌の温度は一定しない。それを彼女に以前話すと、『要の手は正直なんだよ。そのときの気持ち、そのまま表してるんじゃない?』 とあどけない笑顔で肯定された。 「マナちゃん。」 応えなくていい。できるなら、応えないでくれ。 「マナちゃん。」 俺はきっと君に許されたくは無いから。絶望にまみれた君の顔で勃つような愚かな身体を持って生きるぐらいなら、憎んで嫌って罵って、言葉と眼差しで殺して欲しい。 「マナちゃん。」 求める声は儚く、懺悔と呼ぶにはあまりに稚拙だった。それでも、少しでも長くこの手に触れていたかった。 |