薄紅色の花弁を撒き散らすのは春一番、なんて生易しいものでは無い。歩くのも難しい風圧の中、普段の倍時間を掛けて職員玄関から専用駐車場の車まで行き着く。 「凄いな・・・。」 今以上にスイッチひとつでキーの開閉が出来る機能に感謝したことは無く、やっと乗り込んだ運転席でスーツに纏わり付く大量の桜を払い落とす。 春、と聞けば穏やかなイメージを持つ事が多いが、今日のような嵐や花冷えといった気候でどちらかと言えば安定している日の方が少ない。儚い花を愛でる事がこんなにも難しいと感じたのは、もしかすると今年が初めてかもしれない。 『先生、こんな話知ってる?』 家を出る寸前に聞いた、か細い彼女の声は今日一日鼓膜を支配し続けた。 『桜の花は根元に埋められた死体の血を吸って色を付けてるって。』 舞い続ける花吹雪よりも淡い笑顔を、僕は自分の手で壊し、その直後にもう一度と願う。それは最早矛盾と呼ぶことすら許されないような愚かな願望で、だけどそれが僕と彼女の関係を成り立たせた。 何度と無く繰り返した思想を打ち消すようにハンドルを切ると、途切れ始めた桜並木の傍らで独りの少女が座り込んでいるのが見えた。迷うことなくブレーキをかけ、扉が飛ばされないよう注意して降りる。 「君、大丈夫?」 後姿でも分り易い、重陽学園の制服を着た猫っ毛のショートヘアがゆっくりと振り向く。 「具合悪いの?」 美少女、と形容するに十分値する大きな瞳がくるんと揺れた。顔のパーツひとつひとつは酷く大人びているのに、その仕草だけやたらと幼く見えた。きっとそれがなければ、この制服が中等部であることに気付くのがもっと遅くなった筈だ。 「風が、あんまり強いから。」 抑揚の無い高い声が紡ぐ言葉は少し彼女に似ていて、他の女性と重ねた事を少し申し訳なく思う。そんな思想を巡らせるほど、綺麗な間柄では無いことは十分に理解していたけれど。 「家まで送っていこうか。」 その誘いの言葉も、まるで、彼女との始まりのようで。 「ごめん、いきなりで怪しがらないで欲しいんだけれど。えーと、気味、園の生徒でしょう。僕は高等部の教諭で・・・。」 「存じ上げてます、瀬田先生。」 スカートの裾と髪を押さえ、少女は立ち上がる。 「お願いしても、いいですか?」 「勿論、どうぞ。」 助手席のドアを開け誘導すると、何処か遠い国のお姫様のように恭しく頭を下げ乗り込んだ。 「酷い風だね。」 乱れた前髪を直す少女はそうですね、と呟くように答えた。簡単に道筋を説明され、目的地へとエンジンをかける。 「中等部の生徒に名前を知られてるとは思わなかったな。」 「あら、結構有名ですよ。5年1組の担任の先生、背が凄く高くて格好良いって。」 教鞭を執るようになってから、女生徒のこういった意見は少なからずあった。それは同僚を通してだったり、本人から直接だったりと様々な形だったが、どれも共通していたのは全身をむず痒くさせる感覚。 「それは光栄だね。」 「でも、私はずっと前から貴方を知っているんです。」 今更のように少女はシートベルト引っ張る。 「誰か上級生に知り合いでもいるの?」 「ええ、先生にとっても似ているの。」 少女の言葉に自分の受け持つクラスの面々を思い浮かべてみるが該当する人物はいない。性別はともかく、自分のような高校生がいては相当気味が悪い。佐川君みたいだったらいてもおかしくはないだろうけど、と高校時代から変わらない笑顔を浮かべる親友を思い出し、口元が綻びそうになるのを抑える。 「例えば、どんなところ?」 「そうですね、何かを飲み込んだみたいに笑うところ。」 思わず、ブレーキをかけそうになった。 「あの子が胸に溜めているのが鉛だとしたら、先生のはきっと桜の花弁ね。それも胸までいかず、喉元に引っ掛かっているの。」 春の嵐は止むことを放棄したかのように、柔らかな青空を掻き乱す。 「先生は飲み込んで消化しようとも思わないのね。いつまで、その声の元に貼り付けたまま言葉を発するんですか?」 白い指先の装飾品のように繊細な桜色の爪が、何を暗示するのかハンドルを持つ方と逆の手の上で二回跳ねた。 「着きました、ここで大丈夫です。」 言われるままに停車する。 「助かりました、有難う御座います。いつか、学園でもお逢い出来る日を楽しみにしていますね。」 「・・・気をつけて。」 応えるように浮かべた笑みの背景に散りばめられた無数の花弁は、少女のためだけに存在しているように見えた。一瞬の隙間から侵入した花弁と、夏の記憶に宿る匂いが頭の中で春風よりも強く暴れ続ける。 不意に、血の味が広がった気がした。 |