この状況の何が辛いかって? 道行く視線が痛い? 否、いつもはもっと酷い。 この酷暑の中いくら女の子とはいえ背負って歩くのはキツい? 否、酔っ払ったレンさんを運んでるのに比べたら負担にすらならない。 背中に当たる柔らかい感触で理性飛びそう? んなわけあるか、そこまで俺は飢えてねぇ。 「ごめんねぇー、要ぇー・・・」 「喋んないでいいよ、もうすぐ家着くから。」 なんでこんな時に限って水分も財布も持ってねぇんだ、俺は。 起きたのは昼過ぎ、頭が割れるかと思うほどの酷い二日酔いで二度寝を繰り返した結果だ。氷水やシャワーでは少しも活性化しない身体に苛ついて、活動を休める気配が全くない太陽を睨みつつ煙草と100円ライターだけジャージのポッケに突っ込んで散歩に出た。 真昼間の街中に出るのは本当に久しぶりで、喧騒に等しい子どもの甲高い声が眩しくて目を細める。家を出て僅か五分で耐えられなくなり、日陰を探すと公園の奥に佇むベンチが目に入った。深く座り込むと頭上にあるデカい樹がいい日除けになったが、木漏れ日が鬱陶しいので見上げずに煙草を咥えた。 少しずつ覚醒してきた頭で昨夜の記憶を追う。枕元に転がっていた空瓶は度数の高い日本酒で、確かレンさんに「好みじゃない」と押し付けられたものだった。ほとんど一本を一人で飲み干したのだから、俺の好みには合っていたのだろう。一升瓶でなかったのが不幸中の幸いだが、呑み始めた記憶まで吹っ飛んでいるのも滅多に無い。 知らない女の家でぶっ倒れてなかっただけマシか、と幼い記憶を重ねて二本目の煙草に火を点けた。ライターを仕舞うのと同時に、履き古したサンダルに黄色いボールが軽く当たる。それを転がるように追いかけて来たのは、恐らく小学校にも上がって間もないような女の子だった。息を切らしながらボールを拾い上げると、熟れた果実のように赤い顔で「痛く無かったですかっ」と声を張り上げた。 「・・・は?」 「ぼーるっ、おにいさんの足に当たったからっ、痛く無かったですかっ!」 児童特有の金属音を連想する声が頭に障るが、それよりもこんな年端をカウントするのも難しい子供が俺に向かって臆する事もなく発言してくる純粋な驚きの方が大きかった。最近の子供の躾は素晴らしく、まともじゃないと判断された大人とは目も合わせようとしないというのに。 「あー・・・大丈夫だ、痛くなかった。」 まだ判断できる年じゃないのかとも考えられる。せめて怯えさせないようにとは思っても声を柔らかくする方法が分からない。 「よかった!」 人を食ったような笑顔って、こういうのを言うんだろうか。実際に食いそうな人と行動を共にしてるせいか、汗だくのその顔は見るだけでも罪になりそうだ。 「おにいさん、隣に座ってもいいですか?」 「あぁ・・・構わんよ。」 砂場やブランコで子供を遊ばせている母親達が目に入り、通報されないことを祈りながらもひとつの疑問が生じた。 「一人で遊んでんのか、お母さんはどうした。」 「ママは寝てるの、さっき帰ってきたから。」 鈍く太陽の光を反射する腕時計は真昼の二時を示していた。・・・つまり、 「夜の仕事?」 「うん。いっつもね、綺麗にお化粧して、髪をふわふわに巻いて、キラキラのドレス着ていくの。その時のママ、まな大好き。」 要、と細く掠れた声で呼ぶ少女の顔がよぎった。・・・昔の女でもない、一度も抱いたこともない、そもそも欲望の対象にはならないのに、なんだってまた。 「まな、っていうのか。」 「そうだよ。おにいさんは?」 あまり自分の名前は好きじゃなかった。必要、要点、重要、需要。この漢字が用いられる単語はどれも俺には到底似合わない。 「・・・おにーさんでいいよ。」 「自分のお名前、好きじゃないの?」 くるん、と薄茶色の瞳がまるく揺れる。 「どうして、そう思う?」 「ママの口癖なの。まなはまなってお名前大好きだけど、そうじゃない人もたくさんいるのよって。まなが好きなことがみんなの好きなことは全部おんなじじゃないんだって。」 「難しいこと言うんだな、お母さん。」 「うん。でもまなは早く大人になりたいから、それでいいの。」 赤いスカートから伸びた足は地面には届かず、所在なく宙に浮かせる様がより幼さを強調をさせた。 「どうして?」 「ママのお手伝いするの。ママはパパと喧嘩してからいっぱい泣いて、それでもまなの前では笑ってるから。きっと、まなが大人だったらまなの前でも泣くと思う。」 唇を強く噛み締め、今にも自分が泣き出しそうな横顔は俺が知っている年齢だけの大人よりもずっと立派に見えた。 「偉いな。」 「ママには内緒だよ、そんなことしなくていいっ言うから。おにいさん、またこの公園来る?」 「あぁ、もしかしたらな。」 「まなこれからランのお散歩しなくちゃいけないから、もう行かなきゃ。また逢えたらお話してね。」 言い終わるより早く、ベンチから飛び降りると一目散に駆け出した。一度振り返り、満面の笑みで俺に手を振ってまた駆け出した。それに手をあげて応えると同時に、気だるい声が頭上に降ってきた。 「要ぇー、いつの間に子供産んだのー?」 「・・・産めるわけねぇだろが。」 ベンチの背もたれに寄りかかる、本日二人目の『マナ』。 「可愛い子だね。要がちっちゃい子に懐かれるなんて珍しい、初めて見たかも。」 「慣れねぇことはするもんじゃねぇな、すっげー疲れた。」 「あはは。」 声はたるさを帯びたまま、力なく笑う少女はベンチの前に回ると溶け込むように身を沈めた。 「学校はどうした、サボりか?」 「辞めてきちゃった。」 硬い鞄を俺の方に放る。咄嗟に受け止めたそれはあまり馴染みの無い感触で、弄ぶのも気掛かりだった。 「そうか。」 「驚かないんだね。」 足を投げ出しても、成長したそれは宙には浮かない。地面についたまま、まるでそこに縛られるように。 「驚いて欲しかった?」 「・・・嘘だよ。」 「知ってる。マナちゃん、嘘つくの下手だからな。」 俺の言葉に返事はせずに、陽の光を避けるように頭を低くして目を伏せた。 「日光、嫌い。」 「レンさんも言ってた。やっぱり似てるな。」 息継ぎのような、小さな咳をして少女は深く身体を折った。 「・・・要。」 「ん?」 「気持ち悪い・・・」 「掴まってないと落ちるぞ、荷物もあんだから。」 「うー・・・」 血の気が引いた顔はおぶさった所為で見えないが、炎天下のコンクリート道路を踏みしめ急ぐ。あのままベンチで休むことも考えたが、水分を摂取できない状態は逆に危険だとうろ覚えの知識を振り絞り自宅まで運ぶことにした。 「うし、着いた。マナちゃん、鍵鞄の中?」 「たぶん開いてる・・・。」 「え?」 「朝、レンがいたから。」 「・・・あぁ。」 開けた先に人の気配は無く、兄妹揃って不用心この上無いがそれを咎めるのは後回しだ。言葉を発する気力も体力も失せたマナちゃんをソファに寝かせると、口に含めるものを求めて冷蔵庫を空ける。 「うわ、酒しかねぇ・・・。」 奥底に眠っていたミネラルウォーターを引っ張り出し、放置されていたグラスを軽く洗って注ぐ。 「ほら、水。起き上がれるか?」 「ん・・・」 古いソファーが軋む音さえも障るのか、グラスを受け取りながら眉間に強く皺を作った。 「あんまり顔しかめんな、別嬪が台無しだろ。」 一気に飲み干すと、制服に少し零れた。それを気に留める事も無く、空になったグラスを差し出す。 「何か食うか?」 「甘いの食べたい。チョコとか。」 「この家酒しかねぇだろ・・・買ってくるか。」 レンさんが小銭でもそのへんに置いてないかな、と居間に向かおうとするとジャージの裾を強く引かれた。 「じゃあいらない。ここにいて。」 「・・・分かった。でも冷房付けるから、一回だけ放してくれるか?」 設定温度は26℃。あまり冷やしすぎても良くないだろう、ブランケットすら置いてないこの家では温度で調節するしかない。 「要、まだ?」 焦れたような声はまだ少し乾いていて、今にも消えそうだった。 「今行く。どうしたマナちゃん、今日は嫌に寂しがりだな。」 「・・・そんなことない。早くこっち来て。」 「はいはい。」 冷蔵庫から大手メーカーの缶ビールを取り出し、プルタブを空けながらソファの傍らに座る。そういえば俺も全然水分取ってなかったな、と今更のように思い出した。 「それ、おいしい?」 「ん?まぁ、それなりにはな。」 「飲みたい、ちょーだい。」 「だーめ。高校卒業するまで我慢しな。」 「それ、二十歳になってからじゃないの?」 「自分でできないことを人には言えねーしなぁ。」 安っぽいアルコールの匂いは鼻に染み付き、最早自分の一部になっているような気さえする。酒と煙草を誰に教わったのか、それがいつだったかのかを上手く思い出せる自信は無かった。 「ねぇ、あの女の子と何話してたの?」 「そんなに長く話してもねぇよ、ほんの数分だ。」 事後に浮気を問い詰められるような、奇妙な感覚。 「要、子供欲しい?」 「今は考えらんねぇな。まず、自分の遺伝子を残すのが恐ろしくてできねぇ。」 「一緒だ。私も子供産むの、すごく怖いもん。」 呟きと呻きの境目のような声と一緒に、背後でソファに顔を埋める音がした。 「寒いか?」 「・・・少し。」 「今度ブランケット買いに行こうな。今はちょっと煙草くせぇけどこれで我慢しとけ。」 クーラーを消すと羽織っていた上着を脱ぎ、セーラー服の上にかける。 「ちょっとじゃないよ、これ・・・でも、要の匂いだ。」 身長が全く一緒な御陰でマナちゃんに被せても違和感のないサイズであることが物悲しい。缶ビールを空にし、二本目を取りに冷蔵庫へと立ち上がると、先ほどよりも強く袖を引かれた。 「どこ行くの。」 「冷蔵庫だよ、ビールもう一本呑みてぇの。」 「だめ。行かないで。要はここにいるの。」 強い口調とは裏腹にかけられた手は震えていた。 「・・・分かったよ。万が一マナちゃんが寝ても傍にいるから。」 マナちゃんが異常なまでに独りを嫌がるのは特に珍しいことでもない。そもそも、『異常』と『通常』の境界線なんて酷く曖昧で、俺達がそれを見失ったのはもう遠い過去だ。 「寂しがりっていうより、赤ちゃん返りみたいだな。さっきの小さいまなちゃんの方が、ずっとしっかりしてた。」 「あの子もまなって云うの?」 「文字まで一緒かは分からんがな。」 「なんか嬉しいね、そういうの。あのまなちゃんも片仮名だといいなぁ。」 灰皿代わりの空缶の飲み口に三本目の灰を落とす。 「ねぇ、要。何かお話して。」 母親と共にベッドに潜り込んだ、幼い子供のようなおねだり。外見で子供らしいところと云えば癖の強い髪の毛だけで、長い睫毛も厚い口元も立派な女だ。 「全く御前等兄妹は俺に無茶振りすんの好きだな・・・。さっきのまなちゃん、お母さんが夜の仕事なんだと。」 「そんな話までしたの?あの子、そんなに要が気に入ったのかな。」 「かもな。そんなに長く話してねぇけど、いい子そうだった。」 マナちゃんはうつ伏せに近い横向きから仰向けに体勢を変え、少し声のトーンを下げた。 「夜、独りなのかな。」 「だろうな。離婚したみたいなこと言ってたし。」 「あの子、もう小学校上がってるのかなぁ。」 天井に向かって手を伸ばす。その細い腕が何を求めるのか、俺には見当も付かない。 「どうだろな。小学校も上がってねぇのに夜独りってのは相当キツいだろうから、さすがにランドセルは持ってるんじゃねぇのか。」 「お母さん恨んだりしないのかな。」 「してないみたいぞ、出勤の格好綺麗で大好きって言ってたし。」 「ふふ、ホントにいい子だね。」 寝返りを打つたびに軋むソファはレンさんがどこからか安く買い付けたものだ。四本目の煙草を取り出すと、マナちゃんは興味津々で俺の手元を見つめた。 「・・・煙草はダメだぞ。アルコールより禁止。むしろこれは二十歳になってもなるべく吸うな。」 「要もレンも東本さんも吸ってるのに?」 「ハルモトサン?誰だそりゃ。」 ライターで火を灯し、浅く吸い込んで息を吐く。マナちゃんは舞い上がる濁った煙を目線で追っていた。喫煙家に囲まれて育ってるこの娘は、今更それに嫌悪感を抱く様子も無い。 「隣の部屋に住んでるクラスメイト。なんか、病気みたいで学校には全く来てないの。すごく細くて髪が長い。」 結構な頻度でこの部屋を訪れてはいるが、端的な特徴を述べられてもその隣人と顔を合わせた記憶は全く無かった。 「別嬪か?」 「そうだね、綺麗な人だよ。なんて言ったかな、哲学じゃなくて・・・不思議な話をしてくれた。」 「へぇ、どんな?」 腰のジャージを首元まで引っ張る。瞼を下ろして、ゆっくりと記憶を追った。 「なんかね、人は死んだらどうなると思うって。要はどう思う?」 「どう思うって・・・死んだら埋葬して終わりなんじゃねぇの。」 「そうだね、私もそう言ったの。そしたら東本さんにはつまらないって言われちゃった。」 目を細めて、まるで何かを慈しむような。 「そのハルモトサンはなんて?」 「霊魂がどうとか・・・死んだら誰にも触れられない、何も感じないって。」 「ま、そりゃそうだわな。」 マナちゃんのクラスメイトってことは、17歳か。俺が17の時は生と死について真剣に考えたことなんてあっただろうか。大体、今も考えてるかといえばそうでもない。 「・・・あぁそうだ、衒学って言ってた。」 「衒学ぅ?随分とおっさんくせぇ趣味持つ女子高生だな。」 「趣味なのかな。難しいけど、面白かったよ。」 もう一度静かに瞬きをして、マナちゃんは大きく息をついた。 「あのまなちゃん、夜は独りなんだよね。マンションかアパートか一軒家か分からないけど、独りでお布団にもぐって天井を見つめるんだね。」 「そうだな。」 空缶の中に吸殻を投げ入れる。まだ中身が残っていたのか、小さく水の音が跳ねた。 「考えたりするのかな。あんな小さな身体で、自分が死んだらどうなるかを受け止めようとするのかな。」 「マナちゃん?」 温度の失くした声に、悪寒が背中を駆け抜ける。慌ててソファを振り向くと、感情の失せた瞳が瞬くこともなく一点を注視していた。五年前の記憶が一気に俺に降りかかる。 「お母さんは、知らないよねきっと。まなちゃんが何考えて帰りを待ってるかなんて。」 虚ろな瞳が見つめるのは俺じゃない。天井でもない。宙に浮かぶ、過去の自分。 「誰も気づいてくれないまま、まなちゃんは朝を待つんだ。朝を迎えたら忘れてるんだよ、でも夜になったらまた思い出すの。そしてまたそれと闘わなくちゃいけないの。」 「マナ。」 強く、名を呼ぶ。それが届くかどうかはこの際どうでも良い。 「潰れちゃうよ、いつか。誰かが抱き締めてあげないと、まなちゃん、潰れちゃう。」 「分かった。マナちゃん、分かったから。」 ソファに上り身を抱き上げ、濁流のように流れる涙を拭う。抱き締めることはできない。俺は【親友】だ、それを許される身分ではない。例え、愛しいと思えたとしても。 「要、要。」 「いるよ、大丈夫。ここにいるから。」 「レンには言わないで。御願い、レンには言わないで。また何処かに行っちゃう、嫌なの。」 「分かってる。誰にも言わないよ、俺達だけの秘密だ。」 俺の太い指を触れるだけで壊れそうな細い手に絡ませ、もう片方の手で頭を撫でた。 「マナちゃん、夢を見よう。レンさんが言ってただろ、寝ちまった方がいい時もあるんだよ。」 瞳を減らしたまま、かくんと首を傾ける。ソファから降りると、手をほどきまたゆっくりと元の体勢に戻す。 「要、其処に居る?私が寝ても、其処に居てくれる?」 「居るよ。ちゃんと居るから、もうおやすみ。」 一度だけ泣き笑いのような表情を浮かべて、それからスイッチを切ったように眠りに就いた。頬に残る白い線が痛々しい。 「情けねぇな・・・」 30間近になったって、女の子一人救えやしない。修正出来ない過去を目の当たりにしがら、抱き締めることもできない。出来るのはきっと、呟き続けるだけだ。 「傍に居るから。」 『自己満足』と『誰かのため』の境界線から、俺は必死で目を逸らす。 「先生・・・」 呻くように零れた寝言の意味は図らずに、最後の煙草に火をつけた。 |