「全さん、聞いてますか?」 後輩の焦れた声で我に返る。手元を見ると、アーモンドパウダーが規定の分量から大きく外れていた。 「最近ボーっとしてますよね。何かありました?」 「なんでもねえよ。で、なんだって?」 計量の段階でミスをするなんて、新人にもそういない。慎重に目盛りを読み直す。 「帰り、図書館に付き合ってもらえませんかって言ったんです」 予熱の温度をチェックしながら、弾んだ声で後輩は言う。 「調べものでもあんのか」 「やー、俺は本とか目次で挫折するタイプなんですけど…うちの彼女、読書が趣味って言ってたんで。ちょっとは勉強しようかなと」 「彼女?…あぁ」 以前から交流のあったお客さんに告白され、付き合うことになった。バレンタインの次の日、浮かれて報告されたことを思い出した。 「ベタ惚れだな」 「だってめちゃくちゃ可愛いんすよ、聞いてもらえます?この前初めて向こうの家に行ったんですけどー…」 にやにやとだらしない笑みを浮かべながらも、恋を楽しむ彼の横顔は幸せそのものだった。スポンジケーキの型を扱う手先も軽い。こうやって真っ当な恋のかたちを見るたびに、思い出すのは和花のことだった。 付き合っていた最中は諍いも不満も少なからずあったのに、別れてしまうときれいな思い出しか残らない。それでも、最後の「分かった」と震えた声だけはどうしても忘れることができなかった。 「全さん、なんで彼女作らないんですか?うちのお客さんにも、格好いいって言ってる人たくさんいますよ」 惚気は全て言い終えたのか、生地を型に流し込みながら何気なく言う。 「今は仕事に集中したいんだよ。それより、どこの図書館に行くんだ」 オレンジを刻む手は止めずに答えた。果汁がレンズにはねる。 「付き合ってもらえるんですか!?良かったー、ちょっとひとりじゃ入りづらいんすよ、場違いって思われないかなって」 「女子か、お前は」 オーブンから甘い匂いが広がる。ボウルの中でてかてか光る山盛りの苺を見つめながら、伸び始めた髭を無意味に撫でた。 『お客様のおかけになった番号は、現在電波の届かないところにあるか、電源が入ってないため…』 何度かけても無機質な女の声が繰り返される。最初の一週間は心配で気が触れそうだったが、だんだんと心情は諦めへと傾いていた。いつ終わってもおかしくはない。痛いほど理解していたはずだ。それがあまりに早かっただけで、あっけなかっただけで、俺が気づけなかっただけで。理由も言い訳もきちんと見つけられる。それなのに、ふとした瞬間に情けないほど心は乱されるのだ。 「全さん、廃棄品もらっていきますか?シュークリームもありますよ!」 一足先に着替え終えた後輩がひょっこり顔を出す。ロッカーを閉めながら、いや、いらない、と答えると、意外そうに目を丸くした。 「そうですか…。店長、手代木がいつも持ってくからって言ってましたよ」 「いいからお前もらってけよ。彼女、甘党なんだろ」 「あ、じゃあお言葉に甘えて…」 まただらしなく口元を緩め、店へと戻って行った。先に出てるぞと声を掛ける。勝手口の扉を開くと、ざあっと強く風が吹いた。車のフロントガラスに花びらが積もっている。ワイパーで払いながら、お花見したいな、と呟いた真知の横顔を思い出していた。まだ雪融けの浅い、底冷えの続く夜に。 「ちゃんとしたことないんだ」 「職場でやるんじゃねえの?新人が場所取りして」 「毎年やってるみたいだけど、参加したことない」 壁にはきちんとアイロンのかけられた制服がかけられている。郵便局員らしい地味な装いだが、真知にはよく似合っていた。 「じゃあ、行くか。春になったら」 「うん!全、もしかしてお団子も作れる?」 「あー…やってみる」 つい最近のことに思えるのに、季節はしっかりと移ろっている。 「全さん、お待たせしました」 白い箱を持った後輩が助手席に乗り込んできた。置きっぱなしだった駐車カードを、気づかれないよう握り潰す。 閉館間際の図書館は、まばらな利用者が本棚に潜むように立っていた。夕方といえど平日では学生の姿も少ない。 「全さんも何か借ります?」 「良さそうなのあったらな。とりあえず、二階で新聞読んでる」 階段は木製だったが、埃ひとつなく清潔だった。沈みかけた夕陽に照らされ、木目がつやつやと光っている。閲覧コーナーに座っていたのは、黒いジャージの男一人だけだった。煙草の匂いがむっとする。小柄な彼が広げていたのは、無精髭と猫背に似合わない英字新聞だった。眼鏡の奥で神経質そうに眉根を顰めている。どこかちぐはくな印象が気になって不躾にも眺めていると、顏を上げる気配がした。慌てて顔を逸らす。柵にもたれると、そっと溜息をついた。 そこで初めて、図書館全体が広い吹き抜けになっていることに気付く。一階全体が見渡せる造りになっていた。そろそろ動く人の頭を見るのは、なんでもないことだがなかなかに面白い。あいつどこかな、と後輩を目で探すと、視界に飛び込んできたのは、見慣れた艶のある黒髪だった。 「真知…」 もう何年も顏を見ていなかったような気がする。たった二週間のことなのに。思わず呼んでしまった自分が恥ずかしくて、口元を手で覆う。後ろの男が咳払いをした。 真知は備え付けられた長椅子に座っていた。ぴんと伸ばした背筋が景色に違和感なく溶け込んでいる。膝の上で広げた本は分厚く、ページを捲る手も遅い。目が離せなくなっていた。真知の纏う穏やかな空気は無数の本によく似合っている。俺は彼女が読書をすることすら知らなかったのに。あの温かな部屋にも一冊も置いていない。俺の狼狽など露知らず、真知は緩やかに読み進めていた。 ここから表情までは読み取れないが、どことなく幸せそうなムードがある。ときおり頭が揺れて髪から覗く、白く小さな耳すらも、ひどく懐かしいものに見えた。前歯を舐めてみても、噛んだ感触は思い出せない。 しばらく見つめていたが、真知が気づく気配はいっこうにない。本のタイトルは分からないが、おそらく小説の類だろう。文字を追う瞳が夢見る色をしている。空想めいたことは好みじゃないはずなのに、本に囲まれているせいだろうか、悪くないと思えてくる。最後に本を読んだのはいつだろうか。高校の読書感想文かもしれない。 真知に欠落しているものはなんだろう。会えない間、時たま考えることがあった。痛覚。人情。自己嫌悪。良心。どれも近いと言えば近いが、何か違う。怒ることも泣くこともなく、全てをたおやかに受け止めて、自ら追い求めることなど有り得ない。その様には、現実味がなかった。確かに温かいのに、やわらかいのに、生身の人間である気がしない。 すとんとその考えが胸に落ちたとき、閉館のアナウンスが流れた。真知が本を閉じ、顏を上げる。黒々とした大きな瞳が俺を捕えるまで、その場から一歩も動けずにいた。視線が重なり合った瞬間、真知はまるで昨日会ったばかりのように笑い、手を振った。応える間も惜しく、階段を駆け下りる。職員に物凄い目つきで睨まれた。 「偶然だね。こんなところで会えると思わなかった」 真知はきちんと脚を揃えて、座ったまま俺を見上げる。さして驚いている様子もない。 「携帯…なんで、繋がらない」 「電源、切ったままなの。もうずっと」 ごめんね、心配した?幼子をあやす母の声だった。あやされている自覚がある分、情けない。 「…いや、いいんだ。何もないならそれで」 自分自身に言い聞かせる。滑稽極まりない台詞だった。 「ねえ、全。明日はお休み?」 望めば望むほど、真知は遠くなる。肝に銘じて答えようとしたとき、後ろから声がかかった。 「全さん!探したんですよ、二階にいるって…」 そこまで言って、真知に気がついたらしい。あ、どうも、と上擦った声で会釈する。 「こんにちは。それじゃあケーキ屋さん、週末にでもまたお邪魔しますね。さっき仰っていた新作、楽しみにしています」 「ええ、是非。お待ちしています」 顔色ひとつ変えずに別れた。周防真知子、やっぱりかわいいですね、と呟く後輩を軽く流し、後ろを振り返る。本棚に背を預けた真知の唇が、待ってて、と素早く動いた。 「じゃあ俺、まっすぐ彼女の家行くんで!今日は有り難うございました!」 バス停に向かった後輩を見送って、運転席のドアを開ける。図書館の入り口まで車を回し、出てくる人々を眺めていた。手ごろな袋がなかったのか、本を抱えて歩くサラリーマンがいた。色鮮やかな表紙を見て、走る間で治めたはずの厄介な思案がむくむくと顏を出す。 もしも真知の非現実的な人格が、物語のかたちをしていたら。例えばお互いの職場も知らずに出会って、俺も和花とは付き合っていなくて、何も知らない一目惚れから始められていたら。こんなに幸せな恋はなかったのにと、愚かな妄想を嘲る。今、この場から離れられないことが何よりの答えだった。 |