「全、久しぶ…」 挨拶をする余裕もなかった。扉を閉める手とは逆の腕で真知を抱え込む。柔らかな黒髪からシャンプーの匂いがした。 「お疲れ様、全」 胸の中で真知が言う。きつく抱き締めると、駐車カードがかさりと落ちる音がした。 「中入ろ?ここじゃ寒いよ」 諭すように背中を叩かれ、しぶしぶ身を離す。目を合わせると、いつもと変わらない笑みを見せた。 「たくさんお客さん来たんだ?」 「たくさんなんてもんじゃねえよ、ちっとは自分で作れっつーの…」 どっかり座って溜息をつくと、真知はくすくす笑ってティーカップを置いた。 「仕方ないよ、全のケーキ美味しいもん」 二月十四日。バレンタイン戦略はクリスマス同様、ケーキ屋の命運を左右する。ショーウィンドウに並べられたチョコ製品を見る女の目は、本命と義理とで大きく違う。二週間近くそんな眼差しに晒されていると、精気が根こそぎ吸い取られていくのが分かる。 「全は誰にももらわなかったの?」 台所から真知がからかうような声音で言った。眼鏡をしたまま、清潔なカーペットに寝転がる。 「いらねえよ、年中味見してんだから」 「そうかなと思って作ってみたんだけど、もうごはん食べちゃった?」 鼻をくすぐる匂いに勢いよく身を起こす。エプロン姿の真知がテーブルに並べていたのは、白米、味噌汁、ハンバーグ、おひたしと、どこにでもある夕飯だった。 「食べていいのか」 「全のために作ったの」 少しはにかんで、俺の隣でちょこんと膝を崩した。 「…いただきます」 里芋の味噌汁を一口飲むと、冷えた全身がじわじわと温まる。そういえばろくなもん食ってなかったな、とハンバーグを崩しながら思う。 「美味いよ」 「本当?良かった」 何事もない光景に見える。最愛の彼女が作った夕飯で、仕事の疲れを癒す男の図。 「ねえ、今度ケーキの作り方も教えて」 「あぁ、いいよ」 ただそれだけのことなのに、現実とは大きな溝がある。それを埋める気には、どうしてもなれなかった。一度足場が崩れてしまったら、もう取り戻す術はない。 ほつれた髪を梳いてやると、真知は猫のように目を細めて微笑んだ。暗闇の中でシーツに包まる真知の裸はまっさらになめらかで、何度触れても足りないと急いてしまう。どれほど強く抱き締めても、瞬きの合間に消えてしまう気がした。 「電気点けていい?」 「んー…だめ」 枕に顏を埋めてから、冗談、いいよ、と呟いた。ボクサーパンツだけ身に着けて、電灯の紐を引く。 「どうしたの?もう帰る?」 「いや、まだ。来たらすぐに渡そうと思ってたんだ」 白い箱からチョコレートケーキを取り出す。いつの間にか起き上がった真知は、目を輝かせてうっとりと見つめた。 「かわいいね。これも廃棄品?」 「いや…材料持ち込んで、こっそり作った」 ぱちくりと長い睫を瞬かせる。真知はごくたまに、声に見合ったあどけない瞳になる。幼さの残るそれを、直視できたことはなかった。 「真知が、好きかと思って。バレンタインの代わり」 ぴと、と背中にやわらかい感触が宿る。真知の細い指がへそのあたりをゆっくり撫でた。奇妙な感覚に、膝の力が入らなくなる。 「早く食えよ、またカピカピになんぞ」 「全の分はないの?」 「俺はいい」 ホイップクリームの上に置かれた苺には、チョコレートのペンでハートが描かれている。真知はそこに唇を寄せて、一瞬だけキスをした。 「食べちゃうの、勿体ないな。これはお店に出さないの?」 作業をした両手がぞくりと震える。なんでもないふうを装って言った。 「まあ…そうだな」 商品にしてしまっては意味がない。そんなことわざわざ口に出したくもなかった。フォークを手渡すと、シーツを腰に巻きつけたまま食べ始める。豊満な乳房をテーブルに乗せて。 「零すなよ」 「うん。なんでこんなにスポンジがふわふわになるのかな」 「企業秘密」 ぱくぱくと食べ進める真知の横顔を眺めていたら、急に視界が暗くなった。至近距離にぷっくりと赤い唇がある。 「苺の味、した?」 「…分かんねえ、もう一回」 目を瞑ると、今度は瞼の上に落とされる。気づけば真知はテーブルに戻っていた。 「はあ、ごちそうさま。美味しかった」 「クリームついてる」 「え?どこ?」 こっち、と振り向かせると真知は大人しく顏を預けた。親指で拭ってやると、長い舌で舐めとる。 「ずっと聞こうと思ってたことがあるの」 なに、と答える声が掠れる。真知の隣にいると、細く切れそうな綱の上を歩いている気分になる。バランスを崩す要因はそこらじゅうに溢れていて、いつ足を取られるか考えるだけで頭がくらくらした。 「全、そんなに目悪いの?」 「…なんで?」 拍子抜けした阿呆面を見られないよう、脚を組み替えた。そこに真知がもたれかかってくる。 「外してるとこ、見たことないなって。寝転がるときとか、危なくないの?」 「気を付けてりゃ平気」 「外してみて」 大した理由なんてない。ただこの時間は有限で、いずれ思い出すこともできなくなるから、あやふやな視界でいるのが勿体なかった。黙ったままでいると、真知はフレームをつまんで静かに外した。そのままおそるおそるかけてから、鏡台を覗き込んで首を傾げる。 「似合うかなあ」 「見えねえって」 外してしばらくすればある程度慣れてしまうが、今の状況ではぼんやりとしか分からない。そっか、と呟いて、首に両腕を回してきた。 「これで、見える?」 「…似合ってるよ」 「えへへ。やっぱり、度強いね。こめかみ痛くなってきた」 「目、悪くなるぞ」 真知の顔立ちだったらもう少し丸みのあるフレームのが、とまで考えて馬鹿らしくなった。 「真知がかけるとしたら、老眼鏡になってからだろうな」 「そうだといいなあ。ずっとかけてると肩こりそう」 あと何年か、もしくはそんな猶予も与えられずに、真知は俺のことなどすっぱり忘れてしまう。ほかの男が買ってきたケーキを同じ顏で食べては笑って、まともな感覚を緩やかに鈍らせていく。指先まで毒の回った手で、眼鏡を掛け直した。 |